おしょろ丸の功績

ジョンR. バウワー(北方生物圏フィールド科学センター助手)

 新生おしょろ丸W世が見送りの群衆であふれたドックに佇んでいる。税関手続きが終わり、学生へ向けての送別が贈られると いよいよ出航である。最後の一人が乗り込んでタラップがはずされた。北海道大学応援団が大太鼓を鳴らし始めた。乗組員と 学生が船の縁へ集まって手を振り、握った色とりどりの紙テープが風に舞っている。ゆるやかに船が前進したとき一等航海士の 幼い娘がドックの端まで走り寄ってきた。「さようなら、お父さん」「次に会うときは大きくなっているだろうね。」彼は 船橋からずっと手を振っている。おしょろ丸48次北洋航海の始まりである。

 おしょろ丸T世

 忍路丸は1909年北海道大学水産学部の前身である新設の東北帝国大学水産学科の練習船として竣工した。グロセスターのタラ船を モデルにした全長31メートルの木造トップスルスクーナー型帆船であり、北海道の忍路湾にちなんで命名された。忍路湾は ニシンの重要な漁場となっており忍路丸の定繋港であったが、湾が小さく運航に支障があったためまもなく小樽へと移された。 1910年にブリガンチン型に改修され、1913年には63馬力の補助機関が増設された。忍路丸は主にオホーツク海を航海し、学生は マダラ、タラバガニ、サケの漁業実習を行った。当初サケ漁は定置網を用いて沿岸で行っていたが、沿岸での漁業がロシア政府の 規制対象となり、沖合の移動を余儀なくされた。1915年には黒田熊雄の指揮でオホーツク海西部において流し網を用いたサケ漁が 試行された。この新たな手法が成功し、日本のサケ流し網漁のさきがけとなったのである。
 1926年8月、忍路丸は26次航海を終えた。竣工以来50,000マイルを航行し、乗船した学生は200名を越えた。その後、 1938年まで日本海洋少年団の練習船「義勇倭爾丸」として移管され、大旺岬で座礁したのちに解体された。今日、忍路丸は 神戸海洋博物館に展示されている。

 おしょろ丸U世

1927年おしょろ丸T世に代わりおしょろ丸U世が建造された。補助機関500馬力、乗組定員59名の全長42メートルバーケンチン 型帆船である。オホーツク海での実習航海が継続され、1931年には中国近海でのトロール調査を実施することになった。
 第二次世界大戦時には帆装が取り払われ、北海道と本州間の鉄鋼輸送を担う。1945年7月14〜16日に函館で合衆国艦載機による 攻撃を受けたが、ほとんど損傷なくして難を逃れた。
 1949年5月、おしょろ丸U世に再び帆装がなされ太平洋への航海が再開される。1952年には猪上直一率いるマリンスノー研究用の 潜水艇くろしおの母船となった。潜水艇は青函トンネルの建設にともなう海床調査にも貢献している。1952年、船は 全長47メートルに改修され、主機関の換装やレーダー設備の導入によって船の性能も向上した。

 北洋航海
おしょろ丸は1953年に国際北洋漁業委員会の調査船としての夏季調査を開始した。北西太平洋およびベーリング海南部において サケ、プランクトン、水路情報が収集された。しかしながら、食事は戦後の米不足によってイモを利用せざるを得ず、レーダーの 故障、調理室での爆発による乗組員死亡など多々の困難に直面した。
 1954年にはビストラル湾において日本のカニ工船と連携しての学生実習を実施した。 これは乗組員にとって貴重な入浴機会となった。というのも、おしょろ丸U世で運搬できる清水はわずか126立方メートルであり、 寄港のない50日の航海では厳しい使用制限を受ける。入浴は禁止され清水の使用は朝の洗顔用のみとされたため、入浴施設を もつカニ工船の訪問時が入浴のチャンスだったのである。
 1955年、北洋調査計画には元田茂より気象観測、海水分析、稚魚ネットとドレッジの曳航、海面水温計測が加えられた。 この年はシアトルに初めての海外寄港を果たし、世界大戦後では邦船による初の合衆国訪問ともなった。ワシントン大学学長 ヘンリー・スミス氏主催の歓迎会が催され、乗組員はラルニア山に案内された。ラルニヤ山は「たこま富士」と改名された。 1955年以降おしょろ丸U世、V世、W世は北洋航海中16の寄港地に85回の訪問を行った。寄港地では水、燃料の補給とともに 地元の水産設備や大学の訪問が可能になった。さらに乗組員が新たなゴルフコースに挑戦することもできたのである。
 おしょろ丸U世は北洋航海以外に国際地球観測年調査(1957-58)、クック諸島の日食観測(1958)に参加し1961年のサイゴン 冬季航海でその任務を閉じた。老朽化した船殻に海水が浸水し始めていた。35年に渡って総航行距離は303,000マイルに達し、 延べ1648名の学生が乗船した。

 おしょろ丸V世,W世

 1962年、全長67メートル1180トン、2000馬力の主機関と可変ピッチプロペラを備えたおしょろ丸Vが竣工した。乗船定員は 学生60名乗組員40名研究者6名の計106名である。最初の航海は国際インド洋観測への参加を目的とした航海である。1968年3月には 最初の北洋航海を実施、1968年には外国人研究者の乗船が始まった。1972年の北洋航海ではチュクチ海への航海が邦船による 最北点到達を記録した。
 1953〜77年の北洋航海はベーリンク海、北西太平洋を主な調査海区とし海水、プランクトン、稚魚採集及びサケ流し網漁を 中心に実施した。1978年調査海区を拡張し、亜北極圏及び180度ラインが加えられた。この海域からはアカイカ、シマガツオ、 サンマ、ビンナガマグロなど多様なネクトンが採集された。収集された情報は1957年から北海道大学で出版する 海洋調査漁業試験要報に編纂されている。1983年におしょろ丸三世は最後の航海を終えた。それまでに530,000マイルを航海し 3263名の学生と144名の外国人科学者を含む1984名の研究者が乗船した。おしょろ丸W世は全長73m、3200馬力の主機関を備え、 今日に至っている。

 特設専攻科の廃止
 北海道大学水産学部では卒業後に修学年限一年の特設専攻科が設けられていた。専攻した学生は北洋航海中の訓練によって 航海技術や海事法規を習得する。1953年以降795名の学生が乗船した。同様の課程が日本では他に三大学(東京水産大学、 長崎大学、鹿児島大学)で設置されていた。しかし入学者数の減少により2002年には4つの特設専攻科は東京水産大学に 統合された。2002年3月、専攻課程最後の卒業生を送り出し、おしょろ丸北洋航海の予算は文部科学省の管轄になった。 しかしながら北洋航海と合衆国及びカナダとの共同調査が継続されることに多くの期待が寄せられている。

 おしょろ丸が11週間の航海を終えて静かにドックへと近づいた。燃料と水がわずかになり、6月の出航時よりも船の水位が 高くなっている。土曜日の朝の寄港は盛大な歓迎会を行うにはまだ早い。48次北洋航海が終了した。ネットや冷凍サンプルの 荷降ろしは日曜日まで待って、今は一等航海士が娘の成長と出会うときである。